最終回・・・古代への誘い~”川原寺跡”&”飛鳥宮跡” in 明日香村
昨日は台風が接近するというのに、昨日までの、昨日だけのイベントが中津川市で2つあり、気持ちを
抑えられず、車でお出かけしてしまいました
行きは普通の雨でしたが、帰りは山中を通ったので、急に強くなった雨と山からの流れ出る水で道路が
びしょびしょで対向車が通る度に前が見えなくなることも多々ありました
何とか無事に帰りましたが、途中、乗員・乗客107名のうち104名が死亡した、日本のバス事故史上に
おける最悪の事故現場(集中豪雨による土砂崩れで飛騨川にバス2台が転落)も通りました
話しは変わって、その昨日、また、飛鳥時代の風が吹きました
(天武天皇)に属して戦い、最大の功績を挙げた村国男依(むらくに の おより)を祀っていたと書きましたが、
今度は中津川の菓子まつり(記事は11月4日予定)で、今度は昨日の橘寺の記事で橘寺の名前の由来と
なった橘の種を植えたという田道間守(たじまもり)にまたしても美濃の国で出会いました
初めて知りましたが、その田道間守はお菓子の神様だそうです
戦国時代が趣味の専門でしたが、これからは飛鳥時代の勉学もしろという誘い(いざない)なのでしょうか?
「中嶋神社」
![イメージ 30](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103224130.jpg)
長丁場でしたが、明日香村ぶら散歩にお付き合い下さいましてありがとうございました
少しでも、古代飛鳥時代の世界を感じていただけたのなら幸いです
明日から、話題がガラッと変わります(笑)
稲穂の靡く田園や畑の風景、史跡の遺構を見て、その上に立っていた、今は無き建造物や飛鳥人が・・・
そこで行われていた権力闘争や人間の営みを頬にあたる古代の風がその世界へ誘い、目を閉じれば、
そこに古代飛鳥時代が蘇って来て、明日香村はまさに時空の旅人の気分に満ち溢れる空間です
明日香村はコンパクトで案内表示もされていて、訪れる人に優しい村でレンタサイクルでも回れますが、
さすがに一日では全部制覇は難しいですね
今回は岡寺でコケ、頭を打ち怪我は無かったものの無理をしないで車で回りましたが、少し離れたエリアは
ともかく、史跡、お寺などが集中しているエリアはレンタサイクルで回るのが賢明だと思います
その方が利便性も高く、車では駐車場が無料の所もありますが、有料(500円)の所が各所にあるため
どこに行ったのか?今回の明日香ぶら散歩の自分的整理として、行った順に記してみると
単独行動だから出来ることで、友人や誰かと行くとしたら、とてもこんなこと出来ません(笑)
時には一期一会の出会いもありますが、複数で話しをしながらの方がどれだけ楽しいかなと思いますが、
こんなんじゃ、誰も付き合ってくれません(苦笑)
趣味の合う、猛者が、私メへのチャレンジャーが現れないかなとつくづく思いますね
近くていつも行ける所なら兎も角、次の機会がいつになるか分からない所はどうしてもどん欲になります(笑)
予定に無かった所に流れ上、3分1行ったので、予定していた飛鳥資料館(須弥山石、石人像)、水落遺跡、
吉備姫王墓(猿石)、鬼の雪隠・鬼の俎が抜けてしまいました
しかしながら、考えてもいなかったキトラ古墳の壁画の一部を見れたのは最高に嬉しかったし、感激でした
※拡大して見ていただくと全体(真ん中から上)がよく分かると思います
右端の木々の奥は”飛鳥京”の中心でした
残念なことに川原寺ばかりに気を取られ、ここから見えるのは役場や
郵便局、住宅の屋根ばかりだったのでパスしてました
![イメージ 28](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103224110.jpg)
川原寺は厳密な建立年次には説が多いですが、7世紀後半の創建とみられ、天智天皇が母の
でしたが、平城京遷都に際して、転されず飛鳥に留まったので、第一級の官寺の地位を失います
真言道場に改めます
その後、建久年間(1190~1199年)に諸堂宇が焼失し、漸次荒廃しました
今は大悲堂、大師堂などの建物のみであるが、創建当時の瑪瑙(めのう)(大理石)の礎石があり、
往年の大寺院を偲ぶことが出来きます
![イメージ 1](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103223930.jpg)
![イメージ 2](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103224140.jpg)
「南大門礎石」
![イメージ 3](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103224150.jpg)
![イメージ 4](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103224200.jpg)
![イメージ 5](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103224210.jpg)
![イメージ 6](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103224220.jpg)
「中門基壇と礎石」
![イメージ 7](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103224230.jpg)
昭和32年から34年に実施された発掘調査で、中金堂の南側に塔(東)と金堂(西)を配置し、
それらを中門から東西に延び中金堂で閉じる回廊が囲み、中金堂の背後に講堂とコの字形の
僧坊を置くという「川原寺式」と言われる伽藍配置だということが分かりました
![イメージ 8](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103224240.jpg)
発掘の結果、川原寺の寺域は南北長がほぼ333mであることが判明し、飛鳥寺の
寺域南北長294mを上回り、川原寺が如何に大寺であったかが裏付けられました
![イメージ 12](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103223820.jpg)
「東廻廊址」
![イメージ 10](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103223800.jpg)
![イメージ 13](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103223830.jpg)
![イメージ 14](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103223840.jpg)
![イメージ 15](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103223850.jpg)
![イメージ 17](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103223910.jpg)
![イメージ 18](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103223920.jpg)
「西金堂土壇跡」
土壇の大きさは東西約13.6m、南北約21.8mの細長い建屋があった
![イメージ 19](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103223940.jpg)
![イメージ 20](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103223950.jpg)
「東室跡」
![イメージ 21](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103224000.jpg)
「東廻廊址」
![イメージ 23](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103224020.jpg)
板蓋宮(いたぶきのみや/一般的には飛鳥板蓋宮跡という)は、7世紀半ばの皇極天皇の宮殿で、
伝飛鳥板蓋宮跡(でん あすか いたぶきのみや あと)とされていましたが、継続的な調査で
平成28年に、名称が「飛鳥宮跡」に改められました
![イメージ 24](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103224030.jpg)
![イメージ 26](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103224050.jpg)
飛鳥京跡は、6世紀末から7世紀後半まで飛鳥の地に営まれた諸宮を中心とする複数の遺跡群からなる
都市遺跡で、宮殿の他朝廷の支配拠点となる諸施設や飛鳥が政治都市であったことに関わる祭祀施設、
生産施設、流通施設などから構成されています
今はその当時から1200年以上の年月が流れ、今、発掘などの考古学から点でしか見えません
酒船石遺跡、飛鳥水落遺跡などの諸遺跡であり、未発見の数多くの遺跡や遺構を含んでいます
現在、飛鳥京遺跡全体の範囲はまだ分かっていないので、範囲特定のための発掘調査も継続されいて、
今後、明日香村はどこを掘っても遺跡が出て来るような村なので、古代ファンとしては楽しみが広がります
![イメージ 27](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yamarohiemon/20010103/20010103224100.jpg)