櫻堂薬師をぶら散歩~本堂



   背筋痛になって、もう10日以上・・・
   寝起きだけだったのが日常にも出るようになり、痛み止めもほとんど効かない状態が続きましたが、
   日曜日に近くに出来た大型電気店のチラシを見ていたら、オムロン低周波治療器が新開店価格で
   半額近くで販売されていたので、日帰り温泉とそこでマッサージを受ける金額と変わんないなと思い
   購入し、夜試してみたら、これが効果てきめん!!3日間で痛みが消え掛かって行きました
   行ってる外科病院は薬とリハビリで治そうというところで、張り薬も出ないし、電気治療も無いところです
   朝起きる度に結構、涙が出る程の激痛が走ったので、消え掛かってもその神経が働いて、朝15分程は
   痛みのない起き方を考えて這っています(笑)
   明日も痛みが出なければ、やっと、お出かけしてみようかなと言う気になりました



   お薬師様は、昔は「瑞櫻山 法妙寺 薬師堂」と言っていました
   弘仁3年(812年)嵯峨天皇勅願寺として「三諦上人」がこの薬師を開かれ、この頃、天皇が病気に
   罹られこの寺の住職の三諦上人に全快の祈願を願われたところ、すっかり病気が治り、天皇の命令で
   この寺の修理・増築を指示され、お堂やお寺が26~36と言われるほど沢山のお寺が立ち並び、全盛を
   極めたこの薬師も、その後約500年の間(1300年頃)には戦乱が続き、お堂・お寺も荒れて少なくなり、
   衰退したのですが、鎌倉幕府から、お寺の領地を頂いて修理・修復をし、お寺の数が24と以前の勢いを
   取り戻し比叡山の末寺となって続いていました

   自分のお得意の戦国時代の歴史分野から見てみると
   元亀二年(1571年)に武田信玄岩村城など周辺の美濃国に進出、織田信長との戦乱に巻き込まれ、
   信長家臣で、”森蘭丸”の兄である金山(兼山)城主の”森長可(もり ながよし)”に、この薬師を焼かれ
   ましたが、その後にこの様な歴史のある寺を焼いた事を悔やんだ森長可鶴ヶ城主の土岐三兵信友が
   仏像の作成、修理をし復興がされました
   その後も衰退、再建を経て、現在に至ります

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   乱反射で諦めた左から3枚目の絵馬が一番古く、慶長年間(1596年以降)に岩村藩松平氏が奉納
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乱反射で正面から写せませんが、右側の絵馬は寛文11年(1671年)岩村藩主丹羽氏が奉納されたもの
左側は、享保年間(1716年以降)に名古屋の薬問屋が奉納した風俗絵馬です
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こちらは更に古い寛文7年(1667年)と今から350年ですから、貴重な絵馬ですね
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寛保3年(1743年)274年前の名古屋の薬問屋が奉納した風俗絵馬
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本堂の右回廊
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舞楽面」が展示されています
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               実物は岐阜県重要有形文化財(工芸品)指定をされていて、本堂内に保管されています
                ※写真は、瑞浪市観光協会から
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 展示の舞楽面は、瑞浪市窯業技術研究所に依頼し、陶器で作られたもので、実物を二倍に拡大したものです
 舞楽面とは、奈良時代中国の唐から伝来した舞楽に使う面のことで、舞楽の動作に合うよう象徴風に造られ、
 当薬師の舞楽面のうち、「羅陵王」、「納曽利」の二面は、顎が動くように造られており、「拔頭」を加えて三面が     
 残っていることで、岐阜県としては誠に珍しいものです
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                             「櫻堂薬師の仏像」
     仏像群は火災の際、本堂の東、金剛坊の林の中へ避難して無事焼失を免れて現在、本堂に
     安置されています
     「本尊」「日光」「月光像」「十六善神」は室町時代後期の作と伝えられ、「四天王像」「十二神将」は
     神篦城主の土岐三兵信友が仏師5名に命じて作らせたと伝えられています

                       ※写真は、瑞浪市観光協会からお借りしました
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