源頼朝・義経の父・源義朝のお墓~野間大坊その1



   ホントなら、今日から1泊2日でユネスコの「無形文化遺産」に登録された33件のお祭りの1つとなった
   埼玉県秩父市で2~3日開催される”秩父夜祭”を観に行こうと予定していましたが、ここのところ母の
   体調が良くなくて、日帰りのぶら散歩は出来ても泊ることは難しいので泣く泣く断念しました
   ブログも行く心算で、6日まで日時指定投稿しておいたのに無念です
   来年には行きたいと思うけど、実現出来るのかな?
   今はすべて母の体調による介護状況で自分の予定が決まるという日常になっています

                                                            「秩父夜祭
                    http://navi.city.chichibu.lg.jp/p_festival/1030/


 
   知多半島へ行った折り、野間埼灯台の後(最初に行ったのは別寺院)、源頼朝の父・源義朝の最後の地
   である「野間大坊(のまだいぼう)」が近い(車で10分)ので寄ってみることにしました


   野間大坊は、愛知県知多郡美浜町にある真言宗の寺院です
   本尊は阿弥陀如来で、鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざん むりょうじゅいん おおみどうじ)と称して、
   宗教法人としての公称は「大御堂寺」といい、通称、”野間大坊(のまだいぼう)”と呼ばれています
   というより、ほとんどの人が自分の周りも含め、”野間大坊”ですね
   ここは知多四国八十八箇所霊場の札所で、本堂が「大御堂寺」(50番札所)、客殿(本殿)が「野間大坊
   (51番札所)とされています

   この寺がある美浜町野間は源頼朝の父・源義朝の最期の地であり、境内には義朝のお墓があります


  「源義朝(みなもと よしとも)」
  義朝は、鎌倉幕府初代征夷大将軍である源頼朝や牛若丸こと源義経の父です
  平治元年元年(1159年)、”平治”の乱に敗れて東海道を下ってきた義朝は、随行していた鎌田政清の舅・
  長田忠致の許に身を寄せるが、忠致・景致父子は平家からの恩賞目当てに野間駅の東にある法山寺に
  あったとされる湯殿で入浴中の義朝を欺し討たれました
  野間大坊は予定外で寄ったので法山寺にも行っていません(こちらには湯殿跡と義朝像があるそうです)



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                       ※興味のある方は拡大して読んで下さい
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  湯殿で討たれた時、源義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば・・・」と無念を叫んだとされます
そのために地元では弔いには花ではなく、木太刀(きだち)お供えする風習になっているとのこと
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    池禅尼は西国三十三ヶ所第二十五番札所「御嶽山 清水寺兵庫県加東市)」の薬師堂を創建しました
    こんなところで満願寺・谷汲さん行った後に西国の番所由来に縁のある方の名を目にするとは驚きです
    頼朝が池禅尼ならびに頼盛の郎党である平宗清に捕えられた際、池禅尼は清盛に対して助命を嘆願
    のために断食し始めたため、清盛も遂に折れて伊豆国への流罪減刑したとも言われています
    頼朝も池禅尼の恩を忘れず、伊豆で挙兵、平家滅亡後もその息子である頼盛をも優遇したそうです
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                   右手にひしゃくを持って、左手でシャッターは難しい
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                 今は「出世稲荷」ですが、かつて五重塔があったのですね
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                 平成26年に野間小学校6年生が制作した町内案内板
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                          「美浜お出かけ観光ガイド」
                       http://nihonnotabi.com/aichi/mihama/