青塚古墳にまつわる蘭丸の兄・森長可公の青塚砦



  犬山市青塚にある「青塚古墳(あおつか こふん)」は、出土埴輪、土器より古墳時代前期の4世紀中頃の
  築造の前方後円墳といわれます
  愛知県2番目の大きさ(円墳長約123m、高さ約12m)で、昭和56年に国の史跡に指定されました

  戦国時代には小牧長久手の戦いの時に信長と共に本能寺の変で亡くなった森蘭丸三兄弟の兄である
  森長可(もり ながよし)がここに「青塚砦」を築き、小牧山城徳川家康と対峙したところでもあります

  また、大縣神社では邇波県君(にわのあがたのきみ)の祖である大荒田命(おおあらたのみこ)の墓として
  伝承していて、ご祭神としていて毎年中秋の名月に近い夕刻から日没に掛け、ここの場所で「墓前祭」が
  執り行われています
  大縣神社からは7kmの場所にあります

  ここは古代ロマンと戦国期時代の両方が漂う遺跡です


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  「金山記全集大成」によれば、美濃金山城に居た森長可天正12年3月12日池田恒興大垣城主・
  長可の義父であり、次男の輝政は播磨姫路藩の初代藩主で今の姫路城に大改修した)から使者が来て
  16日に軍勢3,000の兵と共に青塚古墳へ出陣し、ここを青塚砦とし、陣を敷いた
  徳川家康の居る小牧山城まで直線で約5kmですから、目視出来る距離に居たことになります

  その時の出で立ちは、緞子の直垂に白の腹巻、草摺を長く着付け、五枚重ねの錣の兜を猪の首に被り、
  小手・脛当は金の鶴丸(森家の家紋)を刻んだ三分の鉄でこしらえたもの
  三尺二寸の大太刀と二尺七寸の刀を十文字にして腰に差し、鷲の羽根で作った矢を背負い、重藤の弓の
  真ん中を持ち、海津黒と呼ばれる七寸三分の逞しい金覆輪の鞍鐙という姿だったと書かれています
  出陣から23日後の4月9日に長久手の地で井伊の鉄砲隊に馬上で眉間を討たれ討ち死にします
  行年27歳でした
  長可の男兄弟6人(可隆、蘭丸、坊丸、力丸、忠政)のうち、忠政だけが生き残り、津山藩18万6000石の
  津山城主となりました

  この出陣の際、死も覚悟して、遺言状をしたためています
  この森長可遺言状は名古屋市博物館で展示されています
               
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「まほらの館」・・・まほら?とが素晴らしい場所のこと
   犬山には青塚古墳以外にも鳥塚古墳、花塚1号墳、2号墳、3号墳、尾張地区最古の東之宮古墳など、
   多くの古墳があります
   この青塚古墳史跡公園ガイダンス施設には、これらから発掘された出土品の鏡や陶磁器などが展示
   されています
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まほろの館」はNPO法人の運営で入場料無料ですが、
協賛金箱に小銭を入れたら、下記の鳥笛を頂きました
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