竹中氏陣屋跡(竹中半兵衛の子・重門が構えた陣屋)&櫓門



        30日に記事になる関ケ原ウォーランドに行った折りに南宮大社、真禅院に行く途中、
        竹中氏陣屋跡があるので久し振りに寄ってみました

        ここは豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛の子・重門が構えた陣屋の跡で屋敷の大半は
        消失していますが、櫓門や門扉、濠、石垣は幾度かの修復を経て現存しています



                            「垂井町観光協会
                          http://www.tarui-kanko.jp/



                   関心のある方は、下記を拡大して見てみて下さい
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                        この像は、竹中重治こと半兵衛です
  竹中重治(半兵衛)は、天文13年(1544年)、美濃斎藤氏の家臣で大御堂城(岐阜県揖斐郡大野町)の
  城主・竹中重元の子として同地に生ま、その後、父の築いた菩提山城に移ります
  家督を継いで稲葉山城主・斎藤義龍に仕え、継いだ斎藤龍興に引き続き仕えたものの、主君・龍興は酒色に
  溺れて政務を顧みようとせず、「龍興を諌める」事を口実に、弟や舅・美濃三人衆の安藤守就ら16人により、
  1日で稲葉山城を奪取するという信じられない事をやってのけます
  8ヶ月占領した後、龍興に返却、自身は斎藤家を去り、その後、織田信長時代の豊臣秀吉の家臣となります
  黒田半兵衛と共に軍師として活躍しますが、天正7年(1579年)4月、播磨三木城の包囲(三木合戦)中に
  病に倒れ、武士ならば戦場で死にたいと秀吉に懇願して播磨三木平井山の秀吉本陣に戻り、陣中にて6月
  13日に死去しました

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       この陣屋を築いた半兵衛の子・重門は美濃の小領主という立場上、関が原では一旦西軍に
       属してから東軍に転じたので現状維持で加増なく、 大坂の陣では六千石の領地に見合った
       兵をだしたものの、それ自体が少数で目立った功績は無く、やはり現状維持でした

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      菩提山城には行っていないので、下記の「菩提山城ーお城に行こう」というHPをご覧ください


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