古河総合公園の民家園



         これで、東京、茨城関係の他、今月のぶら散歩で溜まっていた記事を終えれます
         明日から、自分としては最新のものをやっと載せれます(笑)

         今回は4月5日分
         「桃花まつり」で行った古河総合公園には「民家園」や寺院もあります
                    ※茨城県古河市鴻巣399-1



                               「民家園」
                   http://www.go2park.net/photo/koga_minkaen.html

イメージ 4



                     「旧・飛田家住宅(きゅうとびたけじゅうたく)」
     元茨城県久慈郡金砂郷村(現常陸太田市)にあり、構造手法等などからみて18世紀前半
     (1700年前半)の建立と考えられることから、県下における最古の曲屋(まがりや)形式とされ、
     その重要性から昭和43年に国指定重要文化財となりました
     昭和50年、古河総合公園内の民家園に移築されました
     住宅の規模は、平面積142.46㎡、桁行16.92m、梁間7.399mで、寄棟造(よせむねづくり)、
     茅葺(かやぶき)となっています

イメージ 1



イメージ 2



イメージ 3


イメージ 5



イメージ 6


イメージ 7


イメージ 8


イメージ 9


イメージ 10



                             「旧・中山家住宅」
      元、茨城県岩井市(現在の坂東市)に建てられていましたが、昭和50年、中山氏の寄贈により
      古河総合公園内の民家園に移築されたものです
      猿島地方に多くみられる「直屋(すごや)」といわれる典型的な「田の字」型の造りとなっていて、
      江戸時代中期の猿島地方を代表する大型農家でした
      平成16年度に茅葺屋根の葺き替えを行ったそうです
      規模は、平面積184.47㎡、桁行17.3m、梁間10.55m、寄棟造、茅葺です
      床板裏面に「延宝二歳(1674年)」の墨書があり、建築年代と推定されます
イメージ 11


イメージ 12


イメージ 13


イメージ 14


イメージ 15


イメージ 16


イメージ 17


イメージ 18


イメージ 19


イメージ 20


イメージ 21


イメージ 22



                           「沈丁花ジンチョウゲ)」
イメージ 23



                        民家園の前には茶畑が広がります
イメージ 24



                               「古河公方館趾」
      鎌倉公方足利成氏(あしかが しげうじ)は、562年前の室町時代となる康正元年(1455年)に
      この台地に移り、館を構えました
      以降、「古河公方」と呼ばれ、五代に亘って約130年間、関東に一大勢力を誇りました
      この古河公方館趾の石碑の東西には、当時の堀と土塁が跡を留めています
イメージ 25


イメージ 26


イメージ 27


イメージ 28



    下の墓所足利政氏墓所は関係ないですが、古河市では今、この方に力を入れているようですね
イメージ 29


    竹で囲われた区画内に義氏、氏姫、義親の3代の墓があります
    足利義氏は最後の古河公方でした
    義氏には嫡子がいなかったため、義氏の所領は娘の氏姫が相続して守っておりました
    後に豊臣秀吉の命で、古河公方家の分家筋の小弓公方家の嫡系の足利国朝が氏姫に入り婿して
    下野の国喜連川に所領を賜り喜連川家を興しました
    国朝が早世したので、今度は国朝の弟の足利頼氏(鎌倉期の足利頼氏の同名の子孫)が入り婿して
    喜連川家を継ぎました
    頼氏と氏姫の間に生まれた嫡子が足利(喜連川)義親です
    氏姫は、国朝や頼氏との婚姻後も喜連川に行くことを拒み古河に残りました
    義親も喜連川には行かずに古河に住みました
    墓所のある地は、香雲院(徳源院)というお寺の跡でした
    香雲院は、足利氏姫の死後、その法名の徳源院に因んで寺名を改めました
イメージ 32



イメージ 30


イメージ 31



                        「足利義氏墓所」・・・右側の木々部分
イメージ 33


「足利氏姫墓所
イメージ 34


「足利(喜連川)義親公墓所
イメージ 35


イメージ 36

イメージ 37


                    いずれの名前もネットでは検索出来ず、不明です
イメージ 38


                         享保12年の290年前のお墓
       スマホに年号など計算アプリを入れているので、こうした年号を見るといつも確認しています
イメージ 39


                       両方とも元禄○年・・・風化により不明
イメージ 40


                       元禄11年という319年前の石仏です
イメージ 41



       古河公方の崇敬篤かった「虚空蔵菩薩堂」・・・ネットで調べても詳細は分かりませんでした
イメージ 42



イメージ 43



イメージ 44



イメージ 57



イメージ 45



イメージ 46



イメージ 47



イメージ 48



イメージ 49



イメージ 50


イメージ 51



イメージ 52



イメージ 53


イメージ 54


イメージ 55



イメージ 56


                         「富士浅間神社」と「富士塚
古河総合公園に隣接する、古河公方の崇敬篤かった虚空蔵菩薩堂の横には「富士浅間神社」の塚があります
ここには稲荷神社の祠と富士山塚があり、元々は古代の古墳だそうです

 「鴻巣富士塚」と言われるこの小高い丘の説明板に書かれているのは
 「室町時代末期に角行という人が世の中の乱れに苦しみ、富士山に登り天下泰平、五穀豊穣の祈願をし、天下 
 が治まった処から富士信仰が起りました
 東講の大先達である南沢正兵衛という人が江戸に此の富士信仰を広く布教した

 鴻巣富士塚は模造の富士山で文政14年頃(1831年=天保2年)の構造と考えられている
 鴻巣村の小森谷家及び広く浄財を募り築造し、富士浅間神社の祭神を勧請した

 東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一つで、富士山信仰は、室町末期頃に起り江戸時代中期には
 非常に盛んになり、江戸をはじめとして、富士講があちこちで結成された
 それにともない模造富士も多数築かれ江戸近郊の富士塚は、50有余を数えるに至った
 しかし、今に伝わる塚は少ない。ここの富士塚は高さ6m、直径30m、塚は一合目から十合目まであり、原形が よく保存されている
 原形保存状態が良好な塚は関東に少ない」
 以下省略

イメージ 58


イメージ 59



イメージ 60



イメージ 61



イメージ 62



イメージ 63