宝暦の治水を行った薩摩藩士義士を祀る「治水神社」



      昨日やっと、カメラのキタムラから電話があって、下のカメラが修理されて帰って来ました
      思った通り、3週間近く掛かりました

         まだ、PENで撮った写真が日時指定投稿でもうアップを済ませている以外で1週間分の記事が
       残っているので、折角、手元に帰って来たというのにしばらく出番がなさそうです

         11月下旬からは前に使っていた予備のオリンパス・ペン使ってましたが、主に使っているのが
      昨年夏に購入した、オリンパスOM-DシリーズのE-M10です
       販売から2年も経たないのに後継機が今年9月から販売されて生産中止したとか・・・
       まだ、普通に販売してるのにね


        いつも鞄も持たず、トラップを腕に巻いてこのカメラを片手に持って、ぶら散歩しています
        行動記録みたいなもので気ままに撮っていて、本格的に一眼をやろうと思ってないので
        自分としてはこのミラーレスカメラで十分です

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       電動式パンケーキズームレンズに自動開閉式キャップを付けてもこの薄さで気に入ってます
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                       スイッチをONにするとこんな感じです
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   話しは戻って、木曽三川公園センター前にある治水神社にも時間があったので、寄ってみました
   ここは輪中地帯で、すぐ先に千本松原があります

   宝暦4~5年(1754~1755年)に薩摩藩が幕府の命(薩摩藩潰しの意もあったらしい)で行なった、
   ”宝暦治水(濃尾平野の治水対策としての木曽三川の分流工事=木曽川長良川揖斐川)”は薩摩藩
   (現鹿児島県)に多くの犠牲を強い、工事中に薩摩藩士51名が自害し、33名が赤痢などで病死しました
   また藩財政を圧迫するなど、大変な土木事業となりました

   当時すでに66万両(500億円)もの借入金があり財政が逼迫していた薩摩藩が最終的に要した費用は
   約40万両(現在の金額にして300億円以上と推定)であった

   薩摩藩家老で工事の総奉行でもある平田靱負(ひらた ゆきえ)はその責任を負い、
   「住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧」
   という辞世の歌を残して自ら命を絶ちました

   その後、近代土木技術を用いた本格的な治水工事は、明治初期にヨハニス・デ・レーケの指導による
   木曽三川分流工事によって初めて行われました


   「治水神社(ちすいじんじゃ)」はその総奉行・平田靱負を祭神として、曽和2年に着工し、10年を要し
   昭和13年(1938年)に油島締切堤の付け根に建てられたものです
   その後、昭和28年(1953年)にはエ事の犠牲者80余名の義士を祀る治水観音が建立されました
   毎年4月25日に神式で春季大祭が挙行され、10月25日には仏式で秋季大祭が挙行されています

   その関係で岐阜県と鹿児島県は姉妹県となり、交流を続けています




                           「治水神社(ちすいじんじゃ)」
                            http://www.chisuijinja.jp/

                        所在地:岐阜県海津市海津町油島無番地


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前回の「・・・とある日の夕暮れ」は、この治水神社の川べりで撮ったものです

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揖斐川(いびがわ)べりから見る落陽の鈴鹿山脈
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                   明日から2日間、また光景が違う世界になります